たまねぎ日記

毎日生きていく方法

2ch系ニュアンスとメンタリティの変化

なんだかんだで夏休みに突入した.今年は3プラス9日で計12日も休みがある.やっぱし製造業ってまとまった休みが取りやすくて本当にお得だわ.人生で一番今が楽ちんな気がする.楽だからと言ってぼけっとしていると,将来的な損を抱えそうで怖いけれど.

 さて何を書こうとしたんだっけかな.夏休みで時間があるから普段考えないことを書こう,というかその時々では想起するんだけど文章化するのはなかなか大変なことだから億劫になっている事をこのタイミングでやろうと思う.

 自分は昔,2chを見ていた.ほとんど書き込んだことはない.初めて見たのは高校生のときだろうか.1997年くらい? 家に自分のお金でネットをひいたんだっけかな.確か当時は月に接続時間10時間とかそういう契約だったと思う.ページを読み込んではちまちま切断して接続時間を節約していた.

 

イラストサイトを見たり,怪しい海外の○○なサイトを見たり,んでもって結局何を一番見ていたのかというと2chだった.特にどの板というわけでなく,ニュース系や趣味を見ていたかな.ここでの刺激はすごかった.第一印象として,みんなすごく頭がいいんだなと思った.上っ面じゃない文章がそこには溢れていて,普段自分の周りで起きないような会話だらけだった.例えば何か海外で紛争があったりする.そしたら当時に自分だったら「平和が一番」レベルの感想しか持たなかった.だけど2chでは「勝手に血を流しあえ」とか「俺には関係ない」という正直な自分本位な感想だったり,国際情勢を鑑みての発言だったり,なんというか上っ面じゃないものにあふれていた.逆に自分の考えは相当上っ面なんだと思った.人は思ったよりも「我」が強い生き物なんだなと気づいた.

 

何が言いたいのかっていうと当時のネットの登場は,高校生の自分にとっては,上っ面メンタリティを破壊したものだった,ということだ.標準的な教育を通して推奨される応答ではない,自分にとって関係あるかどうかそれに根ざしたもの,そしてそれをお互いが譲れないということ,そういうものがネットにあふれていた.「氏ね」「あぼーん」「逝ってよし」「DQN」などで表現された嘲笑がネットにあふれていた時代だった.

dic.nicovideo.jp

Webを通して可視化された自我,それは他人を攻撃することでまずは生まれたんだと思う.この事事態を悪く言うつもりはない.品は良くないと思うけれどね.当時多くの人にとってWebの存在は当たり前ではなくて,突然登場したもの,いきなり品を求めるのは遡及的なアンフェアな態度であろう.ここまで書いて,この文章は2ch用語を過去に遡って振り返ることで当時のメンタリティをこういうものだったんだろう,と想像して語るという具体的な手法が見えてきた.なかなか面白い気がしてきたぞ.

 

最初期の直接的嘲笑の時代から少し時間が流れ,VIP的な時代が来る.時代的に2002年~2008年くらいか? VIPに書き込みしたことがない人でも以下の顔文字がwebやネトゲに氾濫したことは覚えているだろう.名称は内藤ホライゾンとかブーンとか言うらしい.うざばか系顔文字(^ω^)の時代だ.これまでの直接的な嘲笑から少し生活感のあるひねりや皮肉が加えられたような表現,「○○なんだお」「○○なんですお」.

dic.nicovideo.jp

この顔文字や「~だお」表現の直接的な意図としては,「氏ね」などと同じく嘲笑であるものの,幼さから来るフレンドリー感や必死さをばかにするようなシニカルなニュアンスや冗談ぽさが増えたように感じる.「氏ね」は使ったことはないがネトゲで(^ω^)や「だお」は使ったことが自分にはある.使ったことがあるどころかネトゲでは多用し多用されていたと思う.「氏ね」はweb上のバトルでしか存在しなかったが,(^ω^)はWeb上の会話として用いられ,やがてwebから出てきたような表現かなと.

 

結局のところ,これら表現は望まれたのだと思う.ああ! 他人をシニカルにバカにしたい! けど「氏ね」だと直接的すぎて使うのが忍びないし,知ってる人には使えない...→(^ω^)コレでいいじゃん! → 爆発的に利用されVIPというまるで人格めいたものが認識される →やがて一般的にも広がりアングラ感が薄れてる → 少しダサさを帯び始める.確かに今使ったら年寄り扱いされそうな表現ではあるな.

 因果関係はよく分からんが,最初期に比べ明らかにフレンドリー要素が増えてwebの使われ方も自我を直接的に表現する場所から,仲間内でわいわい楽しむ一つの場所として使われ始めた(mixiネトゲとか) まるでビッグバンが起きて急拡大した宇宙が少し落ち着いて小さな銀河がぽつぽつと生まれるように,圧倒的スペースから小宇宙群へ.

 フレンドリーさは急速に拡大していく,現在の到達点はなんJ語であろう.関西弁をベースに「○○ンゴ」「サンガツ」「ええんやで」などなど,なんか土着的というか生活感がぐっと出てきたというか,「氏ね」ほど直接的でなく(^ω^)ほど間接的でなく,もっと自然で素朴な飾らない我の出し方というか,時代を経てバランスした表現だと感じる.ベースが標準語ではなく関西弁というもの興味深い.繰り返すが流行っているということは便利だと思う人がたくさんいるということだ.なんJ語がこの形なのは,そんなニュアンスが無意識下に望まれたからだ.ただしなんJ語的ニュアンスは現実世界に影響を及ぼす所までは来ていない.来ていないというか,なんJ的ニュアンスが現実世界よりもフレンドリーになってしまい,なんJ語を使うには現実世界は冷たすぎる,というバランス何だと思う.実際職場や学校で使う所を想像すると,何?突然馴れ馴れしいんだけど?ってなる気がする.個人的にはけっこう好きな表現なのでどんどん現実世界に侵食してほしいと思う.

 

やがて次のニュアンスがそろそろ望まれていて,何かの誤用かなんかで急速に広まるだろう.もしかしたら次は表現の変化ではないのかもしれない.2ch的なスペースはwebでは小規模なものになっており,まとめサイトでその規模が維持されているような状態だ.そういう意味ではまとめサイトは新表現を育成したり周知する苗床みたいなものだろう.しかし最近では広告ばかりで末期感があるしなあ.次は一体何が来るのか? ニュアンスの到来というのはツールの到来と違い,もう一つの世界という気もするが,次はどうなるかわからない.発散して宇宙の塵として消え,現実世界ベースのFacebook的世界のみになるのか(個人的にはコレはつまらない),Youtuberの個にぶら下がる形のカリスマ傘下型になるのか(個人的にはコレもつまらない),それともニュアンスの苗床たるまとめサイト以上のものが登場するのか.

 ネットスラング,形をもたずニュアンスの共有し,まるで人格めいたものがそこにいるような気がするスペース.ツールではない人の拠り所.いくつもなく,現実世界と常にバランスして変わり続けるスペース.そんな曖昧なものが愛しくてやまない今日このごろである.

 

 

 

倉本圭造氏の記事の感想

 Facebook創業者ザッカーバーグの卒業スピーチを翻訳した記事をきっかけに倉本圭造という人を知った.ザッカーバーグじゃなくて倉本氏のブログがすごかったので感想を書いていきたい.

keizokuramoto.blogspot.jp

 

 倉本氏のブログはめちゃくちゃ長文でしかもなかなか読ませる.万人におすすめというわけじゃないし,記事によってはピンとこないなーと思うものを少なくない(こういう場合は,自分が何かを感じるのに必要な経験を持っていないからだと思った) とにかく,自分にとってはすごく粘着力のある文章だと感じた.少し休憩しながらでないと読めないくらい体力を消耗させられる,,,一般化された記述のようで強制的に自分の経験・記憶の中に流し込まれて,断片的なそれらがくっつき始めるような,こういう感覚って初めてだった.ちなみに読んだのはこの記事.

我々が起こすべき「静かなる革命」について・・・または「知性とは文脈力・空気を読む力」という時代の終焉(2017年3月8日のブログ:”日本から老害を一掃して残業を減らす唯一の方法”のこぼれ話) | 倉本圭造 | note

 

 これはnoteのお金を払ってでも読む価値があった.世の中にこういう風に感じていて,言語化できる人がいたんだという希望が持てた.正直びっくりした.コンサルタントなんて胡散臭くて,『一般化された抽象論で会社の偉い人をそそのかす』商売だと勝手に勘違いしてたから.

 

 このブログに対して真面目に感想を書こうとするとそれまた大変長文になる.それでもかきたいと思うんだけれど今日はもう夜遅いので,今頭に思いつくことだけ並べて書くことにする.

 

 会社でサラリーマン生活をしていて,どうしてもよくわからん人種がいることに悩んでいた.自分はそういうタイプが苦手だった.苦手というのは一緒に仕事をしたくないという意味だ.彼らの共通点として『しゃべりがうまい』だ.しゃべりが非常に軽やかで,やれ「戦略」だとか「再発防止」だとか「仕組み作り」だとか「やり方の統一」なんてことをよく言い出す.彼らとしゃべっていても前方の見通しが晴れやかにならず,返って腰が重くなった記憶しかない.Noと言おうものならたちまち責任論的観点から論破される.色々と文句が出てしまったが,一番気に入らないのはどうしてそんなに軽やかにしゃべれるのか,だ.分離していると思った.喋った内容から想起されるめんどくささや泥臭さ,工数,確認事項,そういうものと今喋っている内容が分離している.いや,分離しているだけならまだ良い.想起されていない? 自分は「それ以降」には関わらないから想起する必要がないから想起していないのか? 目の前にいる人間がこれから背負うかもしれない重荷の重量感を微塵も感じていないような,ナイフの切れ味をよく理解せずに振り回しているような,そんな感覚.

 自分はこう理解した.彼らはそういう重量感から自由でいられるから「軽やか」なんだと.

 

ってところまで書いて,長文になりそうなので明日追記することにする.どうせ誰も見ないブログだしねえ笑

 

 

 

シンゴジラをもう一回見たし,買った

ほったらかしていたブログをまた書いてみようかという気持ちになった.もともと頭をシャキリさせるために,できるだけたくさん短時間で文字を書くことコンセプトにしていた.それをわずか2回の投稿でしかも2年間もほったらかすという我ながら情けないことをしたものだ.とにかく過去を嘆くよりも今のために書いてみることにする.

 

シンゴジラを再度見た.最初は茅ヶ崎の映画館で一人で見に行ったと思う.当時シンゴジラはネタ臭がすごくて,なんでシン・エヴァンゲリオン作らないでゴジラなんか作ってんだよ,庵野監督みたいな雰囲気だった.自分もネタ的に見に行ったつもりだった.茅ヶ崎の映画館は全然混んでいなくて,半分もお客さんが入っていなかったんじゃないかな.それも合って期待せずに見た.

 

シンゴジラすごい・・・

 

これが当時の率直な感想だった.物語が淡々と過ぎていく.おかしな人間ドラマは石原さとみ界隈にちょっとあるくらいで,非常にゴジラ急襲の事案に対して日本の行政機能が淡々と対応していく.学生の時にコレを見たのならば,日本の政治家や官僚ってホントだめだめだな,と感じたことだろう.けれど社会人などリアル社会を経験しているものだったら,あれのすごさがわかると思う.官房長官の仕切りの見事さ.事態の急変を察して会議を中断したり,総理の気持ちを察しながら今が決断のタイミングであることを上手に促している.総理は決断すべきときには決断している.形式的な会議であることを自覚しつつも,一方でそれがなければ実質は動かないことを現場で感じるものがいながらゴジラに対して皆が淡々と仕事をしていく.一番印象的だったのが,対策本部が設置された時にコピー機が大量に搬送されるシーンだ.おいおい今さら「紙」かよ,やっぱり日本て遅れてるな-なんて思った人もいるだろう.けどね,やっぱり現場では「紙」が情報共有のツールとしてまだまだ有効なんだなあと思った.事態がどう変化するのか分からない中,ITツールってどこまで柔軟性があるのかっていうね,例えば明日からメンバーが変わったり担当部署が増えたり減ったりすると,現場の煩雑さに耐えるほどITツールって万能じゃないのかなって言う気がする.きっとあの現場ではマキ教授の暗号?を解析したり,もちろんメールや情報共有にITツールは使ったことだろう.それ以外のポテンヒットゾーンを処理する場所として,同じ仕事をするメンバーが集まる会議室だったり紙が必要なんじゃなかろうか.自分の話で悪いけど例えば研修なんかで全員のバックグラウンドやスキルがわからない状況に於いては,メールだったりOFFICEの共有だったりはどうしても不備が出ることが多い.でもたった一枚の付箋やホワイトボードでの事態共有がすごい有効だったりしたんだよなあ.

 

さてさて話をシンゴジラに戻して,,,物語のテンポはすごぶる良い.

どんどん物語が進んでいって,さっさと準備が完了していく.自衛隊も作戦が決まっていって上陸ルートに応じた場合分けの作戦が準備されていく.この淡々さんは非常に快感である.庵野監督はこういうのが面白いし自分も作っていて楽しいと感じながら作ったに違いない.シンゴジラは大人になった子供が作った思考実験ともいうべき,リアルvs虚構のコピーが示すような事態展開ドラマなのだろう.僕も非常にこういうのは好きだ.

 

ゴジラがどんな破壊を見せるのか,そういう期待ももちろんあった.それよりも自分がもっと見せてくれ,どんどんやってくれと思ったのが矢口を始め,日本の行政機関の対応である.次はどんな手段でゴジラの進撃を止めてくれるのか,行政の力がどれだけゴジラに対抗し得るのか,人間の知恵や現場の工夫がどれだけ通用するのか,非常に期待しながら見た.矢口の巨災対チームのメンバーたちはとても素直で実直な連中である.これは意図的にそういうキャストや設計にしたのだろうと思う.そういう実直な人間がゴジラという災害に対抗し得る実体であることを脚本家や監督は表現したかったし,きっと映画づくりの中でも,そんな実感を感じながら仕事をしてきたのだろう.

 

巨災対のメンバーたちは良くも悪くも目の前の仕事にしか興味がない.でも目の前の仕事に対して大きな好奇心を持って仕事をしている.善良なオタクのイメージで,偉くなることには興味はないあぶれ者の集まりだ.そういう人間たちを讃歌しているようなドラマ出会ったと思う.尾頭ヒロミはそれの代表格だった.総理ミーティング?でもあったように,彼女は人の目を見て話さないけど,余計なシガラミを一切期にせず科学的な見解を述べる.早口で情報量が多いように見えて,言うべきことを言っているだけだ.石原さとみのことはとっても好きだけど.シンゴジラでは尾頭ヒロミが一番ヒロインしてたなと思った.空気の下ネゴを取らずに自分の見解を自分の責任で喋れる人って素敵だね.(仕事では苦労すると思うけど,でもそういう人をうまく使ってくれる人もいるんだよね)

ちなみに市川実日子尾頭ヒロミっぽいVAIOのCM.シンゴジラを見た人にニヤッとさせる演出になっている.

 

 


VAIO 静寂キーボード篇

 

映画を見てから1年が経っただろうか.itunesで2500円でシンゴジラを買った.一週間で2回くらい見ている.もっとこういう映画増えないかなーと思う.SFちっくであんまし人間ドラマがないものがいいなあ.こういうのはやらないかなー.

母さんが言っていたこと

今日は母の日ということで母が言っていたことを書く.

昨日車の中の話

自分「家族でバーベキュー行ったら面白いんじゃね?」

母「やだなー.なんで出かけてまで料理作って後片付けしないといけないの」

めっちゃ最もだと思った.うん,バーベキューって母ちゃんには日常の延長になるかもね!

頭をしゃっきりさせるためにブログを書いてみる

1年ぶりくらいのブログだろうか.

最近,ぼんやりしていることが多くて頭がボケそうなのでブログを書いて,脳をしゃっきりさせることを目的してブログを再開する.

もともと大学のときからブログをほそぼそと続けてきていて,その効果は凄く大きい.なんかブログを書くと今まで思いつかなかったことを突然書き始めたりするのだ.こういう記事は自分であとから読むと,自分こんなこと考えられたのかーと我ながら感心するできだったりするし,当時にしては比較的新しい発想だったりする.こういう閃きみたいのって脳にとっても良いなあと思うので,ブログを再開するのだ.

 

今「脳がさせる15の習慣」をいう本を読んでいる.これは筆者が医者ということもあるだろうが,なかなか納得感の行く本でおすすめである.書中,学問的に脳はこういうものです,という書き方をするんじゃなくて,筆者の医師としての体験に基づいた非常に体感的な内容となっている.自分はこういう体感的な文章が好きである.学会論文のように理路整然として,というものではなく患者とのコミュニケーションから導かれた体験知的な内容である.

 

例えば次のような文章,”目を動かさない患者は思考の切り替えの機会が減るので,どうしても同じことをしつこく考えがちになる.時としてこういう人はみんながとっくに忘れている内容を突然思い詰めたように語りだして周囲を驚かさる.”

 

これを読んで,はー!と思った.脳の仕組みがなんたらかんたらと書くんじゃなくて,目の前にいた患者さんとの応対の経験を語っているのだ.こういうのはとっても説得力があるなあ.本と読む人は,原理的な事を吸収するとともに,こういう筆者の経験知みたいなものを上手に吸収するとよく読んだことになるだろうと思う.

 

というわけで今日のブログリハビリはここまで.時間をかけずに文章を切れよくたくさんかけるトレーニングを続けよう.