たまねぎ日記

毎日生きていく方法

倉本圭造氏の記事の感想

 Facebook創業者ザッカーバーグの卒業スピーチを翻訳した記事をきっかけに倉本圭造という人を知った.ザッカーバーグじゃなくて倉本氏のブログがすごかったので感想を書いていきたい.

keizokuramoto.blogspot.jp

 

 倉本氏のブログはめちゃくちゃ長文でしかもなかなか読ませる.万人におすすめというわけじゃないし,記事によってはピンとこないなーと思うものを少なくない(こういう場合は,自分が何かを感じるのに必要な経験を持っていないからだと思った) とにかく,自分にとってはすごく粘着力のある文章だと感じた.少し休憩しながらでないと読めないくらい体力を消耗させられる,,,一般化された記述のようで強制的に自分の経験・記憶の中に流し込まれて,断片的なそれらがくっつき始めるような,こういう感覚って初めてだった.ちなみに読んだのはこの記事.

我々が起こすべき「静かなる革命」について・・・または「知性とは文脈力・空気を読む力」という時代の終焉(2017年3月8日のブログ:”日本から老害を一掃して残業を減らす唯一の方法”のこぼれ話) | 倉本圭造 | note

 

 これはnoteのお金を払ってでも読む価値があった.世の中にこういう風に感じていて,言語化できる人がいたんだという希望が持てた.正直びっくりした.コンサルタントなんて胡散臭くて,『一般化された抽象論で会社の偉い人をそそのかす』商売だと勝手に勘違いしてたから.

 

 このブログに対して真面目に感想を書こうとするとそれまた大変長文になる.それでもかきたいと思うんだけれど今日はもう夜遅いので,今頭に思いつくことだけ並べて書くことにする.

 

 会社でサラリーマン生活をしていて,どうしてもよくわからん人種がいることに悩んでいた.自分はそういうタイプが苦手だった.苦手というのは一緒に仕事をしたくないという意味だ.彼らの共通点として『しゃべりがうまい』だ.しゃべりが非常に軽やかで,やれ「戦略」だとか「再発防止」だとか「仕組み作り」だとか「やり方の統一」なんてことをよく言い出す.彼らとしゃべっていても前方の見通しが晴れやかにならず,返って腰が重くなった記憶しかない.Noと言おうものならたちまち責任論的観点から論破される.色々と文句が出てしまったが,一番気に入らないのはどうしてそんなに軽やかにしゃべれるのか,だ.分離していると思った.喋った内容から想起されるめんどくささや泥臭さ,工数,確認事項,そういうものと今喋っている内容が分離している.いや,分離しているだけならまだ良い.想起されていない? 自分は「それ以降」には関わらないから想起する必要がないから想起していないのか? 目の前にいる人間がこれから背負うかもしれない重荷の重量感を微塵も感じていないような,ナイフの切れ味をよく理解せずに振り回しているような,そんな感覚.

 自分はこう理解した.彼らはそういう重量感から自由でいられるから「軽やか」なんだと.

 

ってところまで書いて,長文になりそうなので明日追記することにする.どうせ誰も見ないブログだしねえ笑